最近『MIKADO』を描いてて思ったのですが、描いてる最中(ネームとか)は全くそんな事がなくても、僕自身の状況と作品内の状況が妙にシンクロしてるような気がします。
一番ハッキリしてるのが第六話と現在進行形の第七話。
主人公である陣が精神的に痛めつけられてるのですが、ストレスで少し苦しんでる僕と妙にシンクロしてたり、今回更新分に至っては少年漫画ではタブーかも知れないブチ切れた描写も僕の心境にリンクしてるような気がします。
ネームの段階では「そんな事は無い」のですが、後になって「そんな事になりおった」…なんですわ。
実に不思議な感覚です。
確か手塚治虫先生は高速道路、TV電話、ロボットの友達など、現在なら普通に存在してるようなものを作品に描かれてたので、そういったものと似たようなものなのかも…?
…などと呑気に哲学してみました。
手塚治虫先生の方は未来予想図として、僕の方はダメな現実…
似てるようで大きく異なる天才と凡才の発想の違いですな。
似たようなもので七月鏡一先生/藤原芳秀先生の「ジーザス」では地下鉄サリン事件、「闇のイージス」では同時多発テロを予見してたかのようなエピソードがあり、こちらは両氏ともに驚きを隠せなかったようです。
たかが漫画と言われがちですが、現実に起こってもらいたくない事件が多いので(自他共に)、そこらへんは切実に祈るしかないっぽいですわ。